かけはし No.307
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- 14-- 14-新フィールド・ノート ―その130―三人の生理学者との出会い 広木詔三 一月十五日・火曜日 一生の最後となるかけはしの原稿を書き始める。大まかな構想を練って終わる。二月十七日・日曜日 明日十八日はかけはしの原稿締め切りである。まだ最初の構想のままだ。締め切りを二十一日まで延ばしてもらう。 十九日が試験とレポートの採点の締め切りなのである。この間に、英文の校閲原稿が戻ってきたりする。二千二年に名古屋大学出版会から『里山の生態学』を出した頃のように忙しい。あの頃のかけはしを手に取ってみると、「憂ゆううつ鬱」というタイトルがあった。その頃は多忙で過労なため心臓発作をおこしたのである。何となくその頃の状況と似ている。一月二十五日・金曜日 神宮前から名鉄電車に乗る。去年の四月から名古屋駅に近い笹島にある名古屋キャンパスに通っているが、金曜日は豊橋校舎勤務である。今日は最後の試験の日だ。 いつもの展望席を予約する。先頭の特別車は全面窓になっていて、運転席が一階にあり座席は二階にある。だから眺めがいい。だが、今はまだ冬で、景色はなんとなく灰色だ。厚い雲に覆おおわれてどんよりしている。ドストエフスキーの小説に出てくるペテルブルクの空のようだ。 新年のことを思い出す。例年、年末は憂鬱になる。元旦は妻の誕生日である。幸いまだ生き延びている。元旦には届いた年賀状を見る気になれない。今年は年賀状の返事を出したのが何と七日であった。年賀状につい憂鬱という言葉を書いてしまった。 一九七四年の八月に名古屋大学の教養部に着任した。その数ヶ月前の面接のときに、採用されたらどんな研究をするつもりかと聞かれて驚おどろいた記憶がある。助手というのはなにをするのか知らなかったのだ。だが、とっさに野外実験をします、と答えたことをはっきり覚えている。野外実験は条件を一定にするのが困難で失敗したものが多い。 今、愛知県の小原村の花崗岩地帯で二種類の堅果(どんぐり)を播まいて痩やせ地での生き残りを比較した野外実験の結果を論文にまとめている。予想どおり、痩せ地に多いフモトミズナラはほとんどが生き残ったが、アベマキはほとんど全滅した。この研究は二十七年もかかった。アベマキはまだ一個体残っていたが、イノシシの跡があるので、継続を打ち切った。 当時、教養部は制度的に研究機関として認められていなかったが、生物学教室では、若い助手のうちに研究に専念して業績を挙げるようにとの配はいりょ慮があった。だが、研究というものをよく理解していなかった私は研究テーマが見つからなかった。大学院の時代には、磐梯山の泥流地帯で植生遷移の研究を行っていたが、問題意識が希薄だった。当時、生物学は人気がなく、ワトソンとクリックによるDNAの構造が解明され、分子生物学がはやり出したころである。先せんぱい輩も同僚もいない研究室というのは問題である。 当時、まだ講師に成りたての松原照男さんは微生物生理学の分野で世界の競争相手を出し抜いていた。競争の激しい分野なのでそろそろ見切りをつけたのであろう。私とどんぐりの発芽の比較研究を始めた。すべて松原さんのアイデアである。彼の洞察力と集中力は恐るべきものだ。微生物学の先駆者のパストゥールに似ている感じがした。私は松原さんのたんなる助手にすぎないという気がしたものである。当時の国立大学は研究の

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