かけはし No.319
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- 9 -旗国歌 大学への不当な介入だ」といい、毎日新聞一一日付社説は穏やかな表現で「国旗国歌の要請 大学の判断に任せては」という。これらの主張は日経新聞のそれとほぼ同じである。 以上の記事を読んでいると、新聞にもまだ良心や魂が残っているところがあり、ほっとしている。と同時に、政権与党の考えていることに腹立たしさを感じている。三 思想の強制 一九九九年に国旗・国歌法が制定された当初、政府は、国旗・国歌への敬意を払うことは強制されるものではなく、そうした対応もしていかないと説明していた。国旗・国歌に対しては、アレルギーを抱いている国民が相当数いるからである。また、そこには戦前の思想統制が暗黒時代を招いたことに対する反省も含まれている。 ある年の園遊会の席で、将棋の米長邦雄・元名人(東京都教育委員会委員)が、「日本中の学校で国旗掲揚・国歌斉唱が行われるようにするのが私の仕事」と挨拶したのに対し、天皇が「(教育現場において、国旗・国歌は)強制になるというようなことでないほうが望ましい」と発言されたことは、有名である。 今回の事態は、安倍首相ら右翼と天皇との民主主義観が大きく異なっていることを物語っている。ちなみに、今年の天皇の新年挨拶では、「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なこと」と述べ、歴史を学ぶことが非常に重要だと強調した。この発言が誰に向けられたものか、前後の脈絡から明かであろう。四 要請は圧力ではないのか 言葉の通りにとれば、要請は相手方が拒否できることを前提としており、強制ではない。しかし、現在の文科省の大学政策を考えたときに、要請が何を意味しているかは自ずと明らかになる。 法人化後の国立大学は、基本的には中期目標や中期計画、そしてその達成度によって評価され、予算配分が決められる仕組みになっている。しかし、一昨年来行われている「国立大学改革プラン」に基づく大学改革では、たとえば年俸制導入の目標値達成指数が大学への予算配分額を決定する要素とされている。スーパーグローバル大学創成事業等では、国の意向に沿った改革プランを、大学の自主性を装って導入しようとしている。学校教育法の改正に伴い、いかに文科省は大学の規則改正に躍起になってきたことか。 大学人は、そして国民は、こうした事態を知っており、そのために国の要請を字義通りには受け取ってはいない。首根っこを押さえられている大学には、悲しいながら、過剰に反応するところも出てくるだろう。 国立大学協会に期待する意見もあるが、残念ながら今の国大協は、法人化前あるいは前後の骨のあった国大協とは全く異なる存在になっている。つまり、日本全体の大学政策に責任を持っている(リーディング大学の学長にその気構えの人がいないか少なくなっている)機関ではなくなっているし、ましてや文科省に楯突いても大学を守ろうとする組織ではなくなっているようである。私の思い過ごしであればよいのだが……。 五 謙虚さを欠いた政権 国家公務員の人件費削減に対応して、二〇一三年度からほぼ二年間、大学の財政力や労使自治を無視して、国立大学の給与も削減された。いくつかの大学は訴訟を提起したが、概して大学の対応は粛々と事務処理をしているかのようであった。 国は、こうした事態を見て、今の国立大学とそこで働いている教職員には、何をやっても抵抗力がなくなっているとうそぶいたという話を聞いたことがある。大学も、そして大学人も舐められたものである。このシリーズの私の話も二〇数年前に始まるが、この間の大学改革は、虎やライオンから牙を抜くようなものであったのかもしれない。 国営放送に露骨に人事介入し、番組作りにも介入し、気に入らないと恫喝を加えるような権力は、暴走した権力である。政権批判を押さえた結果どうなるかは、日本の歴史が示している。民主主義は、健全な政権批判がないと、独裁に堕してしまう。今の政権のマスコミに対する居丈高な事情を西欧の友人に話すと、誰しもが信じられないという。近隣のどこかの国の話かと疑う人もいる。 ****** 井出孫六『抵抗の新聞人 桐生悠々』(岩波新書)が面白い。

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