かけはし No.318 送別特集
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1977年4月に名古屋大学理学部物理学科の研究室に技術職員として採用されてから2回研究室を異動した後、共通業務への技術職員の共通化等で物理金工室にその後の改編で名称は覚えきれないように変わりましたが、今年度定年退職になりました。採用当初は大学の業務に慣れるのが精一杯でした。幸か不幸か、5年から8年サイクルで担当業務が変わり、勉強になりました。最後の5年はなにかしらのプロジェクトに関わって定年かなと思っていましたが、理学部物理の極低温実験室の液化ヘリウム製造業務担当の欠員のため、突然、兼任で担当することになりました。まさかの55歳過ぎてから資格(高圧ガス製造責任者)取得をするとは思っていませんでした。 やり残した気持ちもありますが、最後が良ければ全てよしの言葉もあります。液化ヘリウム業務は問題続出でどうなるかと思いましたが、何とか改善でき、定年までに業務を引き継ぐことができるようになりました。この原稿を書いている時点では何とかなりそうです。 大学の研究教育は良くも悪くも、青天井だと思います。やればやるほど次の課題が湧き出てくる。失敗が失敗でない等、思考・視点が会社とは異なるため、なじむのには時間が必要でした。この大学特有の思考がもっと社会に認知される必要はあるのではないでしょうか。 生協に加入したのは丁度、北部厚生会館の完成時でした。採用前に何回か名大に来ていた時は、今の学生会館一階の購買の狭さを知っていましたので、「立派だな」と思ったこと、組合員加入の申し込みをした時、1万円を出したらそのまま1口400円、25口になったのが懐かしくあります。 生協の活動では二つ、忘れることができない思い出があります。一つ目は豊田講堂で年2回開催されていた虹のつどいで献血を実施したことです。第1回目は1989年6月24日(土)の雨の降る午後のみでしたが、157名の方が献血に応じて頂きました。多い時は389名(94年)もあり、他の血液センターからどうして街頭献血でこんなに献血者が集まるのかと、見学に来られたこともありました。しかし、豊田講堂での虹のつどいが開催できなくなった後は、北部厚生会館前で行っていましたが、不定期になったため、認知度の低下と献血者の減少が続き、ここ2年は開催できない状態が続いています。 二つ目は1995年1月17日の神戸震災で生協のボランティアとして、2月から3月にかけて参加したことも忘れません。まだ神戸市内では拠点を確保ができていなかったため、西宮市に入りました、週末を利用し行くたびに交通費をどう工面するか色々試行錯誤をしたこと。現場活動では多くのことを学ばせていただきました。今も防災ボランティアをしていますが、生協の「みんなは一人のために、一人はみんなのために」が根底にあったのではと思っています。大学は人それぞれが自分の方向を探し、視点や意見も異なることを共有できる場だと思います。近年は残念ながら貴重な存在になりつつありますが、どっこい大学はしぶといと思っています。37年間ありがとうございました。(まつおか・ひろし)松岡 博全学技術センター 職員名古屋大学の思い出Ⅻ

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