かけはし No.318
9/22

- 9 -も多かったが)、学生気分に浸ったものである。 キャンパス内で学生がマルクスがどうのこうの、ウェーバーがどうのこうの、といった話をしていると、読んでないのが何となく恥ずかしくて、次の時まで何とか読んで話の輪に加わろうとした。そんな中で、理解の程度は不分明であるが、古典も読んだ。随分背伸びをした記憶がある。今ならトマ・ピケティの本(『21世紀の資本』みすず書房、二〇一四年)だろうか(まだ読んでいないので春休みの楽しみにしている)。 インターネットのない時代と現在とは勉強の仕方もかなり違うと思うが、しかし、身につく知識はやはり読書からしか得られない。どの新聞も日曜日に書評欄を設けているが、一番の楽しみである。毎週のように新聞の下段の方に新刊書の案内が出ているが、読みたい本がたくさん出てくる。学生には、できるだけたくさんの、しかも領域を広げて本を読むことを薦めている。読書はすぐに役立つものもあれば、じわじわっと染み渡って栄養分となってくるものもある。学問に促成栽培は向いていない。 手頃な値段で(千円以下)、しかも内容が充実しているのは、何といっても新書である。学生がIT機器で使うお金のほんの一部を投資すれば、実に精神的に豊かな生活が送れる。四 語学について 大学では第二外国語が必修であった。今では第二外国語を教えない大学があるようであるが、それは専門学校か単科大学にすぎない。名古屋大学でも教養部の廃止の際に、専門書を読めたり、論文を書くための英語教育だけで十分であると主張した部局や教員がいた。結果的にそうならなかったのは、賢明な選択である。 私は大学でドイツ語を第二外国語として選択し、その後研究者になってドイツ法を主とした比較法研究を行うようになった。だから第二外国語が重要であったとも言いたいが、それだけではない。英語が確かに国際的に最も通用する言語であることを否定はしない。多言語の人たちと同時にコミュニケーションをとるのに、今のところ最も有効な言語手段でもある。 しかし、世界は多文化で成り立っている。企業や大学のグローバル展開が時のトレンドであるが、そうであるなら私たちの目も外に開かれていかなければならない。狭隘なナショナリストにならないためにも、それは必要である。戦後処理についてドイツを勉強することは決して無駄ではない(先日亡くなったが、ドイツの大統領であったリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーが終戦後四〇周年を記念して行った演説『荒れ野の40年』岩波書店、一九八五年は是非読んで頂きたい)。歴史や芸術あるいは古い思想に触れたいなら、ヨーロッパ言語の習得が必要になる。 さらに今日では、企業も大学もこぞってアジアに秋波を送っている。企業にとっては新たな市場が望めるからである。ところが不思議な現象であるが、中国語やハングル語を除いて、日本の大学でアジアの言語をかなり網羅して教えてくれる(その前提として研究している)大学は、東京外国語大学と大阪大学(旧大阪外国語大学)くらいしかない。名古屋大学でもアジアの地域研究をトータルに行っている部局や学科がない。総合大学なら、アジアの数カ国に渡るような地域研究をどこの大学でも行うべき時に来ている。名古屋大学にはその先陣を切って歩んでいくくらいの気概があってもよいのではないだろうか。 五 独自のメソッドと体制が不可欠 一九九〇年代前半に多くの大学から教養部がなくなって、新たな全学出動の教養教育体制ができあがったが、かつての制度と決定的に違う点がある。高校から進学してきて間近の大学生に、カルチャーが異なる大学教育を施すためには、独自の体制とメソッドが必要である。メソッドとは、現在行われているような短時間の意見交換会に過ぎないFDではない。教養養育とは何か、を常に考えている教員集団がおり(就職してきてみたらノルマとして教養教育を課されたという教員ではない)、そこでの談論風発による哲学的な議論に裏付けられたメソッドでなければならない。今日多くの大学で教養教育の充実が認識されながら、良い解決が見つからない理由は、この点の欠如にあると私は考えている。

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です