かけはし No.318
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- 8 -もうひとつの大学論(その5)ー教養教育の危機(2) 法学研究科 和田肇はじめに 前号(三一七号)で北星学園大学の事件を書かせて頂いたが、その後大学は、当事者で元朝日新聞記者の植村隆さんを非常勤講師で採用し続ける決定をした、との報道に接した。植村さんの事案については、当人が雑誌に書いているので(「慰安婦問題『捏造記者』と呼ばれて」文藝春秋二〇一五年一月号、「私は闘う」世界二〇一五年二月号)、関心があられる方はそれを読んで頂きたい。様々な意味で理不尽さを感じさせられる事件である。 私がこの事件を取り上げたのは、植村さんとその家族が言われなき中傷に悩まされていることを知って頂きたかったこともあるが、それ以上に、この事件で「公正」や「正義」が著しく浸食されていると感じたからである。それ以降も、匿名性を利用した卑劣な大学攻撃は続いている。その人たちの精神構造は、イスラム国のそれと何ら変わらない。 さて、私は古い世代に属している(といっても大学入学は紛争後である)が、その当時と今とでは教養教育のあり方は大きく変わった。しかし、ここで書くことは懐古趣味ではなく、教育の本質に関連している。一 シラバスという形式主義 昔も学生の履修の助けになるように、誰がどういう教養教育を担当するのか簡単な情報は大学から提供されたが、今のような立派なシラバスなどなかった。語学については、担当者が決まっていて、全く選択の余地はなかった。少ない情報の中で、先輩や友人たちを頼って情報収集をした(誰が単位を取りやすいかといった情報も含めて)。 現在は、学部から大学院(法科大学院は特に)まで含めて詳細なシラバスを書かされる。そのことが大学評価に関わるようであるが、シラバスの充実度を評価するなど全くのナンセンスである。授業をされた方なら分かると思うが、シラバス通りにはなかなか授業は進まない。途中で脱線したり、その年度の学生が興味を引くところを熱心に話したり、首をかしげる学生がいたら、そこを一所懸命説明しなければならないことなど、日常茶飯事である。そこに教えることの面白さがある。だからシラバスなど、講義の大枠が分かるものであれば良い。参考文献なども、講義の中で適宜触れるので、最初から全部示しておくことなどできない。二 レジュメの弊害 学生にアンケートを採ると、丁寧なレジュメを配布する先生の評判が良く、そうした注文をされることもある。しかし、これなども邪道である。分かることを教える、全部分かるように教えるというのは、せいぜい高校までの授業である。大学の授業は、世の中には分からないことがたくさんあること、ある事項について多面的な見方が可能であり、またそうすべきであること、学問は楽しいことを教えるのが、本筋である。 九〇分の授業のすべてを後々まで覚えているなど、できるはずがないし、そんなことは意味がない。優れた先生の謦咳に触れ、そこからわずかでも良いから得心のいくこと、感心することを会得できたら、それこそ後々まで残っている。私の学生時代の講義では、教師はそう話していた。それを今私は実践しようとしている。学部の講義なら、六法のみを持って行けば、一年間分くらいの話は難なくできる。 学問の難しさといえば、昔東大のある先生が講義の途中で話に詰まった。話しながら自分の説明の矛盾に気がつき、その場で考え込んだ。そして、考えがまとまらなくなり、次回までに考え直してくると言って、学生に謝って講義を止めた。途中で話しが詰まる経験なら私にもあるが、その場でお茶を濁してしまった。どちらが教育的なのだろうか。 三 読書のすすめ 昔の学生は、下宿に本をどのくらい持っているか密かに自慢した。決して本が安かったわけではない。本は宝であり、どんな本を持っているかで(積ん読

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