かけはし No.318
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- 16 -言魔人多き中に 用事があってJR名古屋駅に行く。どんな時間でも人・人・人、この人達の流れを突っ切って行こうと、待っていても、一向にとぎれない。夜11時過ぎに新幹線を降り立っても、以前なら、閑散としていた構内、相変わらずの人だ。駅に限らず、色んな所に色んな人が居る。人口が減少しているなどということは統計上のこと、実感は湧かない。確かに、過疎地に行けば実感するだろう。現に昨日、岡山県の山間を訪ねたが、実感した。テレビで地方を歩く番組など、人っ子一人通らないというような景色を見る。その落差の大きさ。 今日も、行きたいところの鉄道経路を確かめに JR名古屋駅の旅行センターに行った。東京とは比べものにならないがここも満員。東京は、いつ行っても人の渦、東京駅然り、品川然り、新宿然り、渋谷・池袋、上野、どこも名古屋駅以上の混雑だ。 以前、品川に泊まったとき、駅近くのビルの上の方のレストランで夕食を取った。窓から、鉄道の線路が見える。新幹線、山手線、京浜東北線、東海道線、他にもいくつもの線が並行して走っている。十数両の電車がひきも切らず行き来している。その電車は乗ろうと思えば大抵は一杯の人達。よくもこれだけ人が居るものだ、よくも集まったものだと思う。 大阪でも、梅田、難波、上六などでこういう混雑を経験した。難波では、もう一度同じ所に戻ることが出来ないことも経験した。最近は京都も随分の人だ。 他にも、各地の祭りの人出、縁日の神社仏閣の賑わい、テレビで時々放映される色々の宴会場の人で、人多しの感を深くする。 その人混みの中を歩いていて、ふと、「人多き人の中にも人は無し、人と成れ人、人と成せ人」という道歌を思い出す。それと一緒に、「この道や行く人なしに秋の暮れ」という芭蕉の句が浮かぶ。これだけ多くの人がそれぞれの道に励んでいる。私も、及ばずながら、語彙研究の道を歩んでいる。ただ、同志は僅かだ、研究会を開いても十指に満たないことが多いし、開けないこともこの頃は多くなった。定年退職の時、退職金を元に、公益信託田島毓堂語彙研究基金というものを設立して、10年を過ぎた。設立時に、しばしばどのくらいの人が語彙研究に関係するのかと問われたものだ。その当時より、多くなったとは言えない。芭蕉の心境だ。 (T)子供の語彙力 語彙という用語の誤用については、今までかなり口酸っぱく説いてきた。それで改善したとは思えないが、その中で、割合まともに前から使われていたのがこの「語彙力」という用語である。学生に聞いても語彙力という言葉は聞いたことがあると言うし、英語の先生も割合よく使うようである。「語彙力を付けよ」と。 言うまでもないが、語彙とは、語の集合である。その集合の仕方は正に種々様々、それ故大きな語彙も小さな語彙もある。「大きな語彙」とはその中に沢山の「語(単語)」を含む物を言う。逆に「小さな語彙」は小さな単語集団を言い、極端なことを言えば、1語から成る「語彙」だって想定できる。更に中身のないいわゆる空集合の「語彙」も理論的には有りうる。その言語には元々無い文化とか風習に関する事柄を表す言葉達の集まりは、その言葉では表すべき語がないので、その語彙の中身が無いということがあるのである。 今ここで、こんな語彙論を展開しようとしているのではない。 ここで取り上げようとしている「語彙力」とは、一体どけだけの単語を知っているか、知っている単語の多寡を言うと言っても良い。単語を沢山知っていれば語彙力があると言える。 「親和力」と言う欄(中日新聞2013.12.7)に今の子どもは「語彙力」が乏しくなってきている。それは「一つには不審者が多くなり、他所の大人とは口をきいてはいけないという子育てになっていること、もう一つは、お母さん自身が、親戚や隣近所の人が家に上がるのを嫌がり、よその大人と話している場面に接する機会を子どもから奪ってきたことが原因だ。どんな場面でどんな言葉を使うのかを学ぶ大人同士の会話から子どもを遠ざけてしまっているためだ。」と言っている。確かに一理ある。又、「子どもと話すときに優しい言葉を使う必要はない。むしろ大人の使う語句や慣用句をそのまま使ったほうが語彙力を高める。」それに「子どもが言いよどんでいるとつい「これはこういうことなのよね」などと先回りしてしまうことも、子どもの語彙力を育てる邪魔になる」と言っている(安田教育研究所代表 安田理氏)。何れも大いに聞くべき考えである。

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