かけはし No.314
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- 9 -なければならない。 以上は、ある大学の制度がうまく機能していていないという問題ではなく、日本の高等研究・教育機能それ自体が危殆化している代表的な改革例である。今回の連載は、これらの問題を中心に今の大学のあり方とは異なる、その意味で「もうひとつの大学論」を論じてみたい。2 成否を判断する視点 大学改革が成功したのか、それとも失敗に終わったのかを判断する基準を示しておく必要があるだろう。私が重視しているのは、次のような点である。 その1は、大学における教育という面から、教養教育は必須の要素であるという問題意識である。圧倒的に多くの大学生は教養教育と若干の専門教育で卒業し、社会にでていくこと、また、現在の高等学校までの教育内容を考えた場合には、大学の初期の段階で教養教育が不可欠であり、大学院の重点化した大学においてもその後の高度教育の前提として、そして研究のモラルを教える必要があるといったことが念頭にあるからである。そもそも大学の大きな指命は、教養人を育てることに主要な眼目があるとも言える。 名古屋大学の学術憲章にも「勇気ある知識人」という言葉が出てくる。教養教育をきちんと教えるためには、教養教育の理念と哲学をきちんとおさえ、それを有機的に遂行できる機構が存在していることが必要である。 その2は、大学での研究は真理の探究であり、特定の産業界、あるいは特定の利益団体のための研究ではないという点である。国から多額の補助を受けて運営されている大学、とりわけ国立大学には、国の政策が反映しても当然であるという考えがあるかも知れない。しかし、たとえば軍需品や軍事関連機械等の輸出によって産業界が潤い、日本全体の経済が良くなるとしても、大学にそのための研究を求めることが果たして適切なのであろうか。これは決して極端な例ではない。あるいは国策に合うような人材を育成することを大学のミッションに求めることが、果たして妥当なのだろうか。 そこで「真理の探究」とは何か、という問いが当然出てこよう。それに答えるためには、歴史的に形成されてきた「知」、「智」、「理性」等に謙虚に耳を傾ける必要がある。 その3は、こうしたことを支える基盤として「大学の自治」が確立されていなければならない。大学の自治は、伝統的には「教授会の自治」を基本的な内容としており、それを貫くのが「学問の自由」である。現在こうした伝来的、伝統的な自治論に批判が突きつけられているが(その多くは政権や産業界から)、それを批判するなら大学の自治や学問の自由論を再検討することから始める必要がある。こうした議論無しになし崩し的に物事を進めていくと、誰もカオスとなった責任を負わなくなる。良く言われる「大学のガバナンス論」には、こうした哲学が決定的に欠けている。 こう言うと学者のエゴイズムを容認するに過ぎないとか、伝統に墨守する保守的な思考であるといった批判も出てこよう。確かに多くの研究者・学者が、学問の自由に内在する権力や世俗との緊張関係を考えていない面があることは、否定できない。だかたこそ学問の自由の堅持には、常に自己反省・批判が不可欠である。それをエンカレッジする仕組みこそ、大学の自治には求められる。 3 今後の予定 今回書いたことは、構想のアウトラインであり、今後一つ一つ詰めていかなければならない。時には資料や証拠を基礎にした議論が必要になる。しかし、同時に経験に基づいた直感や価値選択も無視できない。理性的な議論が必要であるが、往々にして直感が正しい認識を示すこともある。 私自身は、法律学、その中でも労働法という狭い領域の専門家であり、ここで論じるテーマについては、法律学でも法哲学や憲法学の知識(大学の自治、研究の自由とは何か等)が、そして大学論・高等教育研究論の知識(大学の歴史や大学とはそもそも如何なる制度なのか等)が、さらに教養とは何かといった知識も必要になってくるだろう。できるだけそうした知識も吸収しながら、論を展開していきたい。総じて現在までの大学についての批判的な分析になることが予想されるが、それに対する多くの人たちの再批判の意見も期待している。

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