かけはし No.314
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- 13 -魔言があるが、そんなことが思い浮かぶのである。尤も、この語源は「はばむ」という語の「はば」と同じだそうで、「幅」とは直接関係ないということであるが、如何にもこの民間語源説を肯うような様子である。 道を造る行政側にも責任があるのは当然であるが、昔からの道は大体は狭い。いじましい努力で歩道を造っているのであるから、余り文句は言えない。使う方のモラルの問題である。すれ違うのがやっとの所では、並んで歩くなどということはやめなければならない。雨の日などは傘を傾けて歩くという江戸仕草を実践する必要もある。一人しか通れない所などもある。どうしても譲り合いの気持を持たねば成るまい。 私の通るところに一つとんでもないところがある。車道も狭くて、車が多く、誠に危険である。どうしても、歩道を通らなければならないのだが、それが歩道とは名ばかり、側溝に蓋をして、その上を通らなければならない。民家がせり出し、自分の土地であることを主張しており、車道の境から、50センチ有るかどうか。絶対にすれ違えない、向こうから人が来れば早く通り抜けなければならない。向こうで人が待っててくれる。こんな所は民家に少し引っ込んで貰うほかない。多分行政も努力はしているのだろうが、一軒だけどうしても譲らないようだ。譲らない方にも言い分はあるのだろうから、端からとやかくは言えないが、お互い大きな心で苦労している人達のことも思いやって欲しいと思う。頑張っている方も、危ない目に会わぬともかぎらない。こんな事を思う人は多いのではないかと通る度に思う。 道路に関しては、いろいろ見てきた。長いこと頑張っていたところも、遂に一軒だけとなり、それでも頑張っている。しかし、いずれ、かたが付く。名古屋の道の場合、数十年という単位で決着が付いたというところも幾つかある。痕跡の残っている所など、そう言えばここも頑張っていたなぁと思うことがあり、まるで跡形もなく想像も出来ないところとがある。それが当たり前の姿なのだからだろう。 堅い言葉で言えば、「公共の福祉」のためということだが、争いがある所などでは、一寸した思いやりが、恐らく双方に必要なのだと思う。(T 2014年4月19日記)が楽になった。裏表にしたり、前後反対にしたりすることが無くなった。その、タグを目当てに、そこを左手に近くして着れば間違いないからだ。暗くてもよく分かる。殆どほぼ100%守られているのに感心した。外国で買った物もそうだから世界基準なのだろう。今まで、それが反対になっていたのはただの一回だけだった。何だったか覚えておけば良かったが、その頃大して気にもしていなかったため、やり過ごしてしまった。多分古い物だったのだろう。 それ以前は、着るときには、大抵首回りの後ろ側に何かが貼り付けてあったり、縫いつけてあったりするのを目標にすることが多かった。タグは大抵ヒラヒラしていて目に付きやすく、張り付いているマークを見るより余程楽で、手探りでも間違いなく着ることが出来る。 それに比べて、下の方に履くパンツ類は余り統一性がない。後ろの方に何かついているのが多いが、前に印が付いていたり、表に付いていたり、裏側に付いていたりする。もっとも、シャツよりは間違いはないからいいのかも知れない。 こんな細かなこと(そうでもないのかも知れない)も、ちゃんと取り決めがあるのだろう。こんな事に感心している。 実はそう思ってみてみると、シャツに限らず、上半身に着る物、セーターにしても、ジャンバーにしても、大抵着て左下になる裏側にそういうタグがちゃんと付いている。こんな事でも知っていると便利であると思った。 (T) シャツのタグ 何時のことだったか忘れたが、下着のシャツ類にタグが付いているが、それが必ず裏側左脇に付いているということを聞いた。一つだけ付いているのや、二枚も三枚も重ねてあるのもある。小さな字で、何が書いてあるのかよくは分からないが、大きさや、生産者、生産地、生地の素材、洗濯の仕方などの内容だ。それを聞いてから、シャツを着るの

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