かけはし No.314
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- 12 - 「言葉に出して言わなければならない」世界、今、こういう世界が広がっている。 腹芸、阿吽の呼吸、魚心あれば水心、黙ってついてこい、悪いようにはしない、などと言うのは、多少胡散臭さを伴う。いずれも物事をはっきり言葉にして言わない、暗々裏に互いに了解して事を進めることに通じる。それで「腹の探り合い」などということも行われる。 政治の世界、とりわけ世界政治の外交では言葉の端々からそこに隠された裏の裏を読むのが常識だ。言葉に表された部分はわずかでも、それを分析する専門家が居る。 ただ、最近の世の中の風潮は、何でも説明責任アカウンタビリティが求められる。学問・研究・教育の分野においてもこういう事が強く要求されるようになってきている。その必要性は確かにある。きちんと説明できることはいいことである。何がどうなっているかが分かることはいいことだ。しかし、これを全面的にあらゆる事に当てはめられ言魔るか。 この頃の会計処理は、素人が見てもまるで分からない。説明を聞いてもすぐ分かるような代物ではない。それには、専用のソフトがあって、所要の数値を入力すればできあがるというのだ。専門家にはそれでいい。しかし、素人がやらなければならない確定申告などは、本当は素人にも分からなければいけない。以前は何とか自分で計算できた。ということは、その内容が分かっていたのである。しかし、最近では、要求された数値を入れるだけ、それでできあがり、何も途中は分からない。分からなくてもいいという。しかし、それでは本当はいけないのではないか。 コンピュータが介在すると途中が分からなくなることが多い。分かる人にだけ分かればいいのだろうか。本当は、誰にでも、一定の素養さえあれば分からなければいけないと思う。ブラックボックスの中で何が起こっているか、不安になる。 本題と少しずれた。何でも「言葉に出して言わなければならない」とすれば、実は困ったことが沢山起こる。曰く言い難いことはいくらでもある。文科系の学問についても、この頃の一般的風潮として常にその目的だけでなく効果ということまで明らかにすることが求められる。しかし、第一、すぐに効果の出るようなことばかりでない。と言うより、効果などはかることがほとんど不可能なことの方が多い。こういうところでも、それを言葉に出して言うことが要求される。 長らく、日本は、アイヌ文化も厳としてあるけれども、多くの地域でほとんど単一文化だった。しかし、今や、世界中の人々との文化交流は世の趨勢である。いろいろの文化が寄り集まって出来たアメリカようなところでは、それは自然のことであろう。そこでは、互いが理解し合うために、どうしても言葉に出して言うことが求められる。ここでは、相手の気持ちを忖度して理解したつもりでいるととんでもないことも起こりかねない。それ故、「言葉に出して言う」ことが求められるのであるが、やはり、これをあらゆるところにというとなかなか難しいことになる。固有の古い文化を持ったところではこれは寧ろ新たな試みである。 要するに、ここにも他を思いやる心というものが要求されているのである。(T 2014年4月18日記)説明のいる世界はばかる 町の中の歩道はきちんと最初から計画されたところは別だが、申し訳程度に作られたものが多い。すれ違うのがやっとというのもある。傘を差してなど以ての外というところもある。総じて狭い。一寸広いと有料自転車置き場などが設置されている。それはいいのだけれど、三人も並んで歩けば一杯になるような所でも遠慮会釈無く平気で、ゆっくりゆっくり歩く若い連中やおばさん達が居る。後ろからその前に行きたいと思うのだが、通してくれない。イライラすることがある。しかもそこを自転車で並んで走るのなど論外である。 道幅一杯に広がって歩く連中を見ると私は「はばかる」という言葉が頭に浮かぶ。これを「幅借る」つまり「幅を借りる」というように理解する民間語源説

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