かけはし No.313
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- 9 -関する規定も挿入されている(労働契約法一八条等)。これらのことは何を意味するのか。それは、正規雇用と非正規雇用は、行き来のできない、あるいは一方通行しかできなかい島だったのが、双方向的な往来が可能になってきていること、そしてこれが今後さらに拡大していくことを意味している。 私たちが一九九〇年代から主張してきたことであり、当時の官僚法学者(立法政策の現場で強い影響力を持っていた学者)はむしろ反対していた。しかし、社会運動や学問的な知見が立法を動かした。三 過剰な働き方の対策 非正規雇用問題は、裏返せば正規雇用労働者の働き方の問題でもある。つまり、銃後の守りがいて、家庭のこと、地域社会のこと、学校のことをすべてやってくれる妻がいるからこそ成り立つような雇用の現実は、あまりにも非人間的であると私には思える。ワークライフバランスやディーセントワークを政府や多くの人が語っているから(西谷敏『人権としてのディーセント・ワーク』等)、あるいは共感する人が多いのかも知れない。 こうした労働者を「正社員」と考え、勤務地や職務内容が限定され、残業も余りしない労働者を「限定正社員」という学者(主として経済学者)がいる(よいとこどりをされた感もあるが、限定正社員論は濱口桂一郎氏がかねてから主張してきた)。しかし、よく考えていただきたい。労働者は家庭生活を一切犠牲にしてまで使用者に労働力の利用権を売っている(労働契約は労働力商品の売買契約である)わけではない。家庭生活を重視する労働者に使用者が配慮することは法律も求めているし(労働契約法三条、育児介護休業法二六条等)、そもそも時間外労働などごく例外的なことであるというのが、労働基準法の建前である。 こうしたことは、欧米ではスタンダードであるから、日本が特殊とも言える。だからこそブラック企業などという言葉が出てくる。過労死や過労自殺などを生む企業は、社会的に大きな顔をしていても良いのだろうか。ブラック企業追放運動は、日本企業のコンプライアンスを確保する重要な動きである。四 より多くの人が幸福と感じられる社会 日本の企業の、そして社会の強さの重要な淵源は、圧倒的な人が中間層だと感じた社会構造にあったと私は考えている。それは単なる主観ではなく、実態に裏打ちされたものでもあった。仮に中卒で就職しても、企業内での職業訓練があり、安定した長期雇用があり、家庭を持つことができた。企業は熟練が財産だと考えていた。 しかし、今はどうか。大卒でも就職が不安で、折角就職しても即戦力としてこき使われ、場合によっては追い詰められて自殺にまで追い込まれてしまう。そんなことが決してレアケースではない雇用社会、それが正常な社会の姿であろうはずがない。一時厚生労働省は、「厚い中間層」の形成を政策課題にしていたが、基本的に賛成である。雇用が二極化したとこれまでいってきたが、実は雇用全体が劣化していると考えた方がよい。それを立て直すのが、私たちの仕事でもある。 私にとっては、自分の子どもの世代に、あるいは常日頃接している学生に、よりよい雇用社会を作って残してあげるのが、最大の目標である。持続可能な雇用社会とは、そういう社会を言う。若者が希望を持てない社会は、必ず衰退していくと考えているからである。(連載の最後に) この連載が始まって五年が経過した。この間、幾人かの人から直接ご意見を頂いたし、編集部を通じてもご意見を頂いた。厳しい意見も当然あった。 こういう読者がいたからこそ連載ができたのであり、心から感謝したい。 最初に構想を話して快く連載を許してくれたのは、名古屋大学消費生活協同組合の常務理事の箕浦昌之さんである。締め切りに遅れがちだった筆者を励まして、時には批判者として接してくれた。この三月に一端定年を迎えるということもあり、私も今回で区切れを付けようと考えた。長い間のご厚情に感謝したい。

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