かけはし No.310
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- 9 -成長期であり、このことが労働法の充実にもつながっていった(ただし、経済成長に伴って一九五〇年代から労働災害が急増し、それが一九七二年の労働安全衛生法を生み出した)。希望者のほぼ全員が雇用される状態である「完全雇用」あるいは「全部雇用」が形成され、維持されたのもこの時期である(野村正實『雇用不安』岩波新書・一九九八年を参照)。 大企業を中心としてではあるが、企業別組合が力を持ち、またその限界を打破するものとして春闘が最盛期を迎えたのも、この時期である。 この時期にはまた、労働法の重要な判例法理、つまり解雇権濫用法理(一九七五年)、整理解雇の法理(一九七〇年代から八〇年代)、安全配慮義務の法理(一九七五年)、反復更新された有期労働契約の雇止めの法理(一九六九年)、採用内定の法理(一九七九年)等が形成されていく。三 伝統的モデルの弱点 伝統的雇用モデルの形成・発展によって労働者保護が進展していった反面で、しかしそこにはいくつかの問題も伏在していた。ここにその後の雇用社会や労働法の変容の一要因あるいは内在的要因がある。 一つに、このモデルは男性正社員を念頭に置いたものであり、そこに属さない女性や非正規労働者(臨時工、季節工、パート労働者)あるいは在留資格のある外国人(オールド・カンマー)にとっては差別的な作用を営んだ。男女別コース制(男性幹部候補コースと女性補助職コース)、女性結婚・出産退職制、M字型雇用、差別定年制等は、厳然たる雇用慣行を成していた(マタニティー・ハラスメントに見られるように、今でもこうした慣行が強く残っている)。労働法や社会保障法は、男性主働き手モデルを前提にして形成された(税の扶養家族控除、一定条件以下のパートの社会保険未加入等)。女性差別の解消については、多くの裁判例の登場に見られるように、女性からの異議申立が相次いだ(結婚退職制等は相次いで違法判決が出された)。しかし、それでも立法解決の大きな声にはならなかった。 非正規雇用も、今と比べると数は少なかったが存在しており、彼ら・彼女らは、労働組合の組合員資格を認められていなかった。有期雇用ということもあり、雇用保障の程度は低かったし、賃金差別は歴然としていた。正社員の賃金構造は企業内での昇進・昇格・昇級によって上がっていく(内部労働市場型)のに対して、非正規雇用の場合には地域の外部市場によって決まり、上昇していくことは通常ない(外部労働市場型)。概して、伝統的労働法モデルの外に位置づけられていた。 整理解雇法理は、使用者の恣意的な解雇から労働者を保護したが、整理解雇基準では非正規雇用は優先順位とすることが認められており、この法理は正社員保護法という面を有している。 二つに、経済の二重構造を反映して、企業規模間の労働条件格差は非常に大きい。労働組合は、欧米のように企業横断的に形成されるのではないので、労働組合運動がこの格差を是正する機能は極めて弱い。換言すれば、労働組合のマクロ的な視点での労働政策・労働市場に対する規制力が弱いことになる。「労働なきコーポラティズム」といわれる所以である。このことはまた、労働保護政策においては、国の労働立法政策がより重要な役割を果たさなければならないことを意味している。 三つに、伝統的モデルは、「会社主義」あるいは「企業中心主義」といわれる、日本的な働き方を生み出していった。雇用保障の代わりに自らの時間の全てを使用者に売りわたす慣行(無制限で随時の時間外労働命令への応諾)、どこへでもいつでも場合によっては単身赴任も厭わずに配転命令に応じる慣行、会社のいうがままに投票する慣行等ができあがった(熊沢誠『民主主義は工場の門前で立ちすくむ』田畑書店・一九八三年と言わせしめた事情である)。社宅制度等の企業内福利厚生施設の充実も、この働き方・生き方を強化した。過労死や過労自殺を生む大きな要因である(過労死が社会問題化するのは八〇年代であるが、すでに六〇年代からその現象が現れている)。

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