かけはし No.310
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- 12 -言魔 この頃、野球場、横断歩道橋、公共施設などに、第三者がお金を出し、宣伝を兼ねて自分の好きな名前を付けることが行われることが多くなった。 以前、公共施設等はその名前を聞けば大抵はどこにあるのか見当が付いた。地名を主とした名前だったからだが、最近はそうはいかない。例えば、(固有名を出して申し訳ないが)「日本特殊陶業市民会館」と言われても一体どこやら、余程関係のある人しか分からないだろう。ここは、一寸前までは「中京大学市民会館」と言っていたように思う。其の使用権が切れたのだろう。そのように命名して何らかのメリットがあったのかも知れないが、払った金額に対して、利益が少なかったのだろう。そうでなければ、そのまま続けるだろうと思う。市民には、もっと前の「金山体育館」なら誰でも大抵は分かった。その方が便利だったが、設置者は、背に腹は替えられなかったのだろう。 野球場も「名古屋ドーム」とか「東京ドーム」なら分かるが「京セラドーム」と言われると、馴れない者は「はて? 一体どこ」となる。 歩道橋には一体何? と思うような名前が書いてある。歩道橋を一々名前をさして呼ぶこともあまりなかろうから、これはご愛敬だ。 最近、近所で私のよく通るところ、暫く工事中だったが、覆っていた外枠が外された。何の工事か分からなかったが、ホテルの新設だったことを知った。それを見るとローマ字で、ROYAL PARK HOTEL云々とある。名前を付けるのは自由とは言うものの、何とも大げさな名前、何でもROYAL と付ければいいというものでもなかろうし、 PARKという言葉からは、私は公園や広場を思いおこす。駐車場と思う人もいるかも知れないけれども。その実、そこは、広さはどれくらいあるかしら、せいぜい縦横が10mちょっとと30mほどだろう。近所に空き地など少しもない。私の知る言葉の感覚からは丸で遠い。 お金を出しての命名権売買とは違うけれども、こういう名前では、余所から来る人が、未だ見ないうちはいいにして、近くまで来てもそれらしき物は見えず、そこだと言われたとき、何と思うだろうか。そんなことはどうでもいいのだろうか。此は言葉の濫用のように思うが、こんな、言葉の意味にこだわる方が馬鹿か。 (T)命名権 江戸時代の画家伊藤若冲の絵に魅せられたアメリカ人ジョー・プライスさんのコレクションが東日本大震災の被害を受けた岩手・宮城・福島の三県で順に開かれている。NHKクローズアップ現代(2013.8.1)で紹介されていた。このコレクションについては30年間、ほとんど世間の注目を集めることはなかったそうだ。たまに日本からの研究者が見に来てはいたが、作者名を確かめ、次々とその写真を取るだプライスコレクションけだったという。絵の中身には関心を示さなかったのである(此に限らず、肝腎な中身に興味を示さず、作者その他周辺のことばかりを気にすると言うことが世の中には多い)。 若冲自身、後代具眼の士が見出すだろうと言っていたそうで、プライスさん自身、若冲もまさかアメリカ人の私がその絵に真価を見出すとは思いもしなかっただろうと笑いながら話していた。 私自身、美術に関してその真価を語るなどということは全くできない。いいと言われている物でも全く感心できない物もある。高名な作者の物と、無名の作者の物とほとんど見分けが付かない。見て、自分の気分が晴れる物、すっきりする物、うれしくなる物、晴れ晴れした気分になる物、その時の自分の気持ちにマッチする物等々、私がいいと思う物は、美術鑑定家などの基準とは相当違っていると思う。はっきり言ってしまえば、その作者に特に関心はない。値段という物にも関係ない。高価な物だと言われても「ハー、そうなんですか」とでも言うほか無い。総じて、絵や美術品に関して、世間でいいと言っている物がいいとは必ずしも思えないことがあるが、専門でもない私の口出しすべき事ではないから黙っている。 実は、番組の中で、プライスさんも世間の目を気にしていなかったと言う。自分の心の琴線に触れた物を集めてきたのである。プライスさん自身元々実業家で、23歳の時、若冲の葡萄の絵に触発されたという。 私はこの番組を見て絵の素晴らしさ、東北の人々に勇気を与えたということに全く異論はなかった。だけでなく、専門家が

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