かけはし 送別特集
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- 30-- 30- 1971年3月1日から2013年3月31日までの42年1ヶ月の間、今まで生きてきた年数の約2/3を名古屋大学にお世話になったことになります。生協には就職してすぐに会員となり、当時、理系食堂や改修前の北部食堂はよく利用していました。結婚して弁当持参になり食堂には行かなくなりましたが、書籍利用班には退職するまで利用させていただきました。今までお世話になりありがとうございます。 大学に入った当初は理系食堂裏山に理学部の木造教室も残っていて、近くに落ちていた椎の実を拾って食べたりしました。赤松林には松茸もまだ出るような環境でした。 理学部物理学科電子線研究室(D研)に文部技官として採用されてから本年まで大過無く退職できました。採用の年は70年日米安保闘争の収束時で、同時期の大学紛争も名古屋大学での教養部、本部封鎖の傷跡を残した高揚期後でした。大学の内外はベトナム反戦や反公害闘争などの社会問題や政治課題で毎週「デモ」もあり、労働組合や学生自治会も活発に活動していました。応用化学科のU技官の失明事故や鏡ヶ池に大量の魚の浮かんだのもこの頃で、その後に生活水準の向上にともない大学も静かになっていきます。 D研は上田良二教授の下で最先端の超高圧電子顕微鏡や半導体表面観察の低電圧による電子線回折と超微粒子物性の研究をしていたにも関わらず、回折写真乾板の線や点の濃さを紙出力の計測機で測定し紙のグラフを物差しで計ったり、紙を切り取って重さで回折強度を出したりして最先端といえない作業をしました。 大学は色々な事を経験するもので、研究室はCp(超微粒子)研へと縮小して、無重力落下実験装置の開発や宇宙での超微粒子実験をすることになります。予備実験で航空機用の無重力実験装置を設計したり、無重力になる瞬間に縦に目の回る経験をしたりしました。終盤は委託研究の途中で教官が退官となり申請書、実験データの解析、成果報告書の作成など後始末で大変な目にあいます。研究室の後始末はまだ終わっていませんが、退職となった後にのんびりと片付けることにします。 退職を前に思い返すと大変だったことも楽しい思い出に変わります。この雑文を読んでいただいた方もお仕事に挫けることなく励んでください。生協の皆様には本当にお世話になりました。あらためて御礼申し上げます。(さとう・としかず) 名古屋大学の思い出佐藤 利和全学技術センター 職員- IV -

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