かけはし 送別特集
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- 33-- 33- 私は三重県最北端の田舎町で生まれ、高校卒業までその田舎町で過ごしたため、名古屋に対しては中学校の時の社会見学でテレビ塔、中日新聞社等をみて都会だなーと思った程度しか印象がありませんでした。大学受験の前に名大病院を見て、古い病院で大丈夫かなーとも思いました。ホタルが飛び交いカエルの鳴く田んぼの真ん中で育った私にとって、名古屋の水は不味く自動車の音もうるさいので、親戚の大工さんに頼んで下宿先の壁に防音設備を施してもらった位です。その後46年が経ち、騒音も空気の匂いも水の味も判らない名古屋人となってしまいました。 私が名古屋に来た頃の名大病院の玄関はロータリーとなっており真ん中に池がありました。入り口左には古めかしい図書館があり、よくこの図書館を利用しました。外来棟、中診棟、東西病棟、医局棟、講義棟などが新しい建物で、入り口右には古い外来棟があり、エレベーターの戸は格子戸となっており手で閉めなければなりませんでした。看護婦宿舎が最も綺麗でテニスコートまであったのです。それに対して、新しく出来た脳神経外科教室はプレハブの2階に医局があった様に記憶しています。いつの時代もこの状況は変わらないのです。玄関右手には古い研究棟や古い講義棟があり、その奥には看護学生の宿舎と共済団の入っていた建物があって、私は何故か看護学生宿舎の電話番をしていた記憶があります。生協は現在の鶴友会館のある場所に建っていた古い建物の1階にありました(写真)。その後昭和46年完成予定の図書館1階に食堂と売店が出来ることになり、ここに生協が入るか共済団が入るかの争いとなったのです。学生だった私は生協の応援をしており、1年上のH先輩と一緒に新図書館に生協が入れるようビラ配りなどの活動をしました。このような努力が実り無事生協が入居できる事になったのですが、H先輩はいつの間にか生協売店に務めていたXさんを奥さんにしていました。生協は私たちにとって極めて身近な存在だったのです。なお、新図書館に入った生協食堂は、開店後の1ヶ月程は有名な調理人を何処かから連れてきて非常に美味しい食事を供給したのですが、その後はいつもの生協に戻ってしまったのを覚えています。 あれから40年。医学部の建物は全て新しくなり昔の面影は全く無くなってしまうと共に、私も生協に余り立ち寄らなくなってしまいました。生協は今どうなっているのかなあ。 (あんどう・ひさみ)名大医学部生協の思い出安藤 久實医学系研究科 教員- I -

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