かけはし No.306
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- 14 - この頃、「傾聴サービス」などということがある。東日本大震災の後、被災地では、坊さん達が、ボランティア活動の一環として、被災者の方々にお茶のサービスをしたり、その方達の話を聴くということが、一種の癒しに繋がっているということを耳にする。 それに限らず、人の話に耳を傾けるということが、色んな場面で必要になっている。身近なこととして、お医者さんに体の不調を訴え、それを聞いて貰うだけで、病気だと思っていたのが治ってしまうということがある。愚痴聞き地蔵さんのお祀りも傾聴の一環である。 このごろ総じて人の話を聞かなくなってきているように思う。研究会や学会でそんな風潮が見られる。大学での大学院生の発表の時にも、以前からその傾向が見られた。しかし、大学では授業の一環だから、単位に関係してくる。言魔傾聴だから、嫌でも出席する。ただ、私が在職中に、博士後期課程は単位制ではなかったから、単位で出席を強制することは出来なかった。それで、私はこう言った。「単位にならないから、きちんと出席しない」と。人の話を聞き、先輩なら、それに適切なアドバイスなり、感想なりを述べることは大切なことである。ところが、当節は事情が違ってきた。自分は当番ならば話をする。しかし、当番でないときには、人の話しは聞きに来ない。こんな事が多くなった。研究会がそうである。自分は発表したい。しかし、自分が発表しないときは出ても来ない。小さな研究会だけではない。全国学会でも、段々そんな傾向になってきた。一つには、制度的なこともあろう。とにかく、成果を出さなければならない。だから、自分は実績を作るためにも発表する。しかし、人の話を聞いても何も自分の特典には成らないと思っているのである。 大きな考え違いをしているように私には思える。昔から、耳学問ということが言われ、その大切さも指摘されている。聞ける話を聞かないのは、それを聞き逃している、損をしているのだ。さしあたっては役に立たないこともあろうが何れ、巡りめぐってそのことが思わぬ役に立つことがあるのである。私は、大学の講義を受けて、その後、こういう経験をしたことがいろいろ有る。 話が逸れてしまったが、人の話を聞くというのはなかなかいいことがあるのである。聞いて貰った方も嬉しいし、聞いた方には得があるのである。 聞くことの利益として最も分かりやすいのが、授業である。あるPTAの会合で私の勉強法を聞かれた。私は高校生の頃から思っていたことを言った。先生の話をよく聞くことだと、そして、分からないことが有れば分かるまで聞くことだと。簡単なことなのだが、大抵の生徒はそうしていないみたいだ。先生の話は上の空、或いは、右から左へ、或いは左から右へ通り過ぎていくだけ。殆ど、聞いていない。どころか、その時間の事とは無関係なことを遣っているのもいる。数学の時は数学の勉強をすべきなのに、その時、英語をやったり、国語をしたり。英語の時間には、逆転して、又、別の教科をやる、というような実に無駄と思えることをしているのが居たものだ。それぞれやるべき時にやるべき事をするだけ、言ってみれば簡単なことなのだ。みすみす損をしているように思った。 どんな場合にも人の言うことをきちんと聞くことは基本中の基本だと思う。国会の審議などは、あるときには、反面教師のようなもの、児童、生徒には見せられないもののようだ。本当は、見本にならなくてはならないのに。時折、テレビで国会中継を見た子供の投書が新聞に載ることがあるが、痛いところを突いている。 病人、年寄りの話に耳を傾けるのもいいことだ。そればかりではない、なにはともあれ、人の話をちゃんと聞く、ということは非常に大切なことなのだ。 (T)

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