かけはし No.305
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- 19 -魔言 不思議に思うのだが、道を歩いていても、すれ違う人の顔が見えないと、何となく不安に思える。皆さんどうなのだろう。この二三年特に気になるのがある。帽子の庇の部分がばかでかく黒い大きなツバ、それが顔を覆い隠してしまう。自分は、サングラス式に黒いツバを通して外が見えるのだろうが、他からは、ツバだけが見えてのっぺらぼう、それを着けているご本人、果たして自分の様子を観察したことがあるのだろうか。知っててやっているのだろうか。それとも、かっこいいと思っているのか、それとも、私が嫌だなと思うのが変なのか。このごろずーっと気になっている。こういうのっぺらぼうとすれ違うと気持ちが悪い。 これとは違うけれども、テレビで、個人の特定が不都合な場合なのだろう、首から下だけしか写さないとか、顔の部分にはモザイクを懸けてぼやかしたりしていることが、最近は頻繁である。不都合だからそうするのは分からないわけではないが、私には大変不愉快である。 宗教的理由から、顔を隠す必要がある社会がある。顔を隠さなければならない人も好きこのんでやっているのではないから仕方ないかも知れない。幸い、自分の近辺にそういうひとはいない。フランスなどで、それを公共の場所で禁止して、悶着があったということを聞いた。その後どうなったのだろう。人に危害を加えるのではないからいいようなものの、最近読んでいた今昔物語の中で、平安時代のことだが、公達を装った一群が先払いをして通行人たちを平伏させた。ところが、その公達と言って行列を作っていたのは、盗賊の一団だった。平伏している連中の持ち物から衣服まで剥ぎ取ってしまったという。一寸反対みたいだが、顔を隠されると、こういう事も起こる。 公共の場所では、素顔を見せて欲しいと思う。 (T) 最近はやりの言葉、「癒やされました」、「癒しを求める」など、「癒し」がキーワードだ。それだけ人々が癒やされることを望んでいるということであり、裏返せば、人々がぎすぎすした世の中で、心が落ち着かないということだ。花を見ても癒やされました、音楽を聴いてもいい癒しになりましたなどなど、この「癒」という漢字など余りポピュラーではなかったが、随分見かけるようになった。 特に、2011年の大震災以来、「絆」という言葉と共に盛んに使われている。「絆」の方は言うだけで、実を伴わないことが多い。震災で生じたガレキ(この言葉には、未だに違和感を払拭できずにいるが、さりとて適当な言葉が見つからない、ありていに言えば、「がらくた」なのだが、さすがにそういう表現は、差し控えられる。そんなことを言えば、「ガレキ」でも一緒なのだけれども)の処理に関しても、首長が受け入れたくても、住民は四の五の言ってなかなか受け入れない。言葉だけの協力で、一向実が伴っていない、いい例だ。 ただ、癒しの方は、震災に関わりなく使われている。動詞としても、名詞としても使われる割合便利な言葉なのだろう。 私自身としては、中々使えない。そう言う場合、大抵は、ホットしたとか、安心したとか、嬉しかったとか、気持ちよかったとか、少し気取って「安らぎを感じた」などと言うだろう。割合、保守的なのだ。こういう言葉の流行りには、素直についていけないのだ。 (T)顔が見えないいやし

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