かけはし No.305
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- 18 -言魔 昨日、自転車で、信号を待っているとき、これも自転車に乗って信号を待っている若い人が居た。見るともなくその人を見た。よく見る風景であるが、ケイタイを操作して、メールでも見ている様子だった。信号を待つ、ほんの少しの間、まさに「寸暇を惜しんで」ケイタイメールを見ているのだった。 私自身、ケイタイは持たないので、そういう心理は十分には分からないが、大凡の見当は付く。自転車に乗りながらでも見ているのがあるから、余程魅力があるのだろう。今や、電車の中で、ケイタイを拝んでいるのは普通の風景になった。道を歩きながらというのもある。授業を待っている学生が、教室の付近の廊下に一杯居る。ほぼ、全員がメールを点検している。猫も杓子もと言いたい思いに駆られながら、その側を通り抜ける。 私は車に乗っていたころは、いつも、電気髪剃りを用意していた。信号待ちの時には、それで頭の掃除をしていた。それで、信号待ちの時間が苦にならなかった。寸暇を惜しんで髪の手入れをしていたのだ。 僅かな時間を無駄にしないことが大切だということを、神谷癸水『游目斎書話』の中で見た覚えがある。今回、その記事を探してみたが容易に見つからない。又、一度読み直さなければと思った。その記事に触発されたのではなく、それ以前から実行していたことがそれに符合したので、よく覚えているのである。今でこそ、トイレは清潔で、人に邪魔されないパーソナル空間であり、そこを書斎にしている人が居ることも知っている。こんな清潔なトイレになる前から、私はやっていた。若い頃は、親によく叱られたので、こそこそと持ち込んでいた。本当に、塵も積もればであり、読書量は相当なものだし、第一慌てなくてもいいので、排便もスムーズ、そういった類の病に罹ったことがない。此も、寸暇を惜しんで、読書をしていたお陰だと感謝している。お勧めするようなことではないが、良かったら、お試しあれ。 (T) 道を走っていて思う。道路には種々様々の溝がある。数ミリのものから、数センチの溝、その溝が埋めてある所、放置してある所、通っていて危険を感じるのと、何も感じない所。 その色々な溝に、一体どうやってかと思うほどタバコの吸い殻が敷き詰めてある。勿論、わざわざそんなことをするのではなかろう事くらいは分かる。しかし、殆ど、所嫌わずタバコの吸い殻は放置されている。歩道でなく、車道にこれだけあるのは、歩いている人が、わざわざ車道に向けて投げるのだろうか。車から投げ捨てられるのだろうか。半端な量ではない。いつか、みんなで塵を拾う催しが報道されていたが、最も多かったのがたばこの吸い殻だったというのも納得である。 タバコが値上げされて、喫煙者は減ったのかと思うけれども、感じでは少しもそんな気配はない。歩きながらの喫煙、自転車に乗りながらでも吸っている。町中では、そこここのビルの入り口で煙りもうもう。 漸く、電車の中、駅のプラットホームなどでの喫煙は見かけなくなった。以前に比べれば格段の進歩だと思うし、病院などでは、基本的に吸えない。それもかなり浸透してきている。大学でもかなり喫煙防止キャンペーンが行われているが、まだまだな様子、喫煙場所以外での喫煙も後を絶たない。先ず、教職員が率先垂範しないといけないと思うのだが。 健康相談など聞いていると、呼吸器系の病気に限らず、お医者さんは決まって喫煙の習慣の有り無しを尋ねる。歳を取ってから喫煙のツケは来るらしい。ただ、それも、おしなべてではなく、幾ら吸っても平気な人もあるから難しい。尤も、喫煙は本人はともかく、回りにも迷惑を掛けるということだけは吸う人は心得なければなるまい。(T)寸暇を惜しんでどうやって ?

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