かけはし No.305
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- 12-はじめに 一九八〇年代以降、労働法学者の役割には大きな変化が見られる。そして、そのことが労働法学者の社会的責任の問題を改めて浮き上がらせた。一 労働運動を支える労働法学者 第二次大戦後の日本は、経済の混乱期で、しかし、他方では民主化の課題に立ち向かわなければならなかった。戦後改革の三本柱の一つに、労働組合の支援による産業民主主義制の確立があったからである。かくしてあちこちに労働組合が結成され、一九五〇年代には労働組合の組織率も五〇%を超えた。 この頃の団体交渉は、場合によってはストライキを伴ったものへと発展していった。そのための様々な戦術が開発された。ストライキを守るためのピケッティング、建物への大量のビラ貼り、経営者が企業運営を放棄したところで起こった生産管理闘争、波状的なストライキ、ゼネスト等々、今では想像も付かない状況であった(といっても直接に見聞したわけではなく、書物や裁判例を通じて得た知識であるが)。 こうした運動に多くの労働法学者が積極的に関わっていった。労働組合運動を支える方向での理論を展開したので、プロ・レーバー労働法学ともいわれた。 この運動は、勿論いつも成功したわけではなく、失敗に終わることもあった。そのときには、労働法学者が勝ち目のない運動をけしかけたといった批判もされたが、彼らは失敗の結果(ときには刑罰を受けた)についてまでとことん付き合った。だから、労働者たちからは、決して恨まれることはなかった。 プロ・レーバー労働法学者の責任の取り方は、自分の理論に責任を持つこと、そして、それによって犠牲を被る者がいたら、徹底的に彼らに寄り添うことであった。二 高みの見物をする労働法学者 プロ・レーバー労働法学に対しては、法学者の役割は、労使の一方に荷担するのではなく、客観的な見地から妥当と思われる理論や解釈を展開することだと考える労働法学者たちが存在した。彼らは、運動に積極的に関わることもしなかったし、それ故に運動の結末からも超越していられた。しかし、その解釈の多くは資本家や使用者に有利に働いたために、彼らはプロ・キャピタルといわれた。 あるいは、彼らの多くは客観的な装いを保っていたので、行政から好まれて活用された。その意味では、官僚法学ともいわれた。労働法のように、当事者の立場が明確に異なり、互換性がない実態を前提とする法分野の場合には、客観的な法学者というのは存在し得ないのではないか、というのが持論である。むしろ大切なのは、自らの立場を明確にしながらも、相手に十分に説得的な理論を展開することである。 法律学が、価値の対立に向き合いながら、しかし、けんかで決着を付けるのではないのは、この説得の論理が不可欠だからである。三 官僚法学者の利用 労働法学者はどのようにして官僚法学になるかというと、それは主として政府の審議会や研究会を通じてである。労働法立法は、労使と公益委員の三者構成で審議し、そこでもんで法案化していくという、いわゆるILO方式を採用している。この公益委員が、実は政策を形成することに大きな貢献をしている。私自身は、プロ・レーバー労働法学者なのでこうした委員の委嘱は受けないが、私の周りにはこういう役割を演じた人が幾人かいる。名前を出すことは差し控えるが、委員会の選考をするフィクサー役の学者もいる。 大学などでの評価基準となっている社会貢献活動では、こう 今、雇用の現場で起きていること(その21)学者の社会的責任とは(2) 法学研究科 和田肇

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