かけはし No.304
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- 14-新フィールド・ノート ―その127―会津磐梯山 広木詔三 盛岡に近づくと、車窓のむこうに黄こがねいろ金色の稲いなほ穂がひろがる。まだ九月の十三日なのに水田が色づいている。早わせ稲が植わっているのだろう。 このところ足が痛くて、毎日の出勤もなかなかしんどい。下北半島の釜臥山や八甲田山の毛けなしたい無岱へ行くのを今年は諦めてしまった。もう野外調査は無理かも知れない。 九月六日に名古屋を立って、その晩に山形に着いた。少々風邪ぎみだがかかりつけの病院で薬をもらい決死の覚悟で出かけたのだった。山形大学の辻村氏が家庭の事情で今年いっぱいで退職するという。それで裏磐梯の情報を得るために彼の研究室まで押しかけたのだ。六日の山形は雨で寒かった。新幹線がものすごく冷えて、風邪が悪化したようだ。ホテルは山形駅の裏側で新幹線の出口の真ん前だ。繁華街までくりだす気力がなく、構内の食堂で食事をする。気づくと、刺身がまずい。なんで山形くんだりまで来て刺身を食うのか、と我ながら思う。 その翌日、辻村氏はまるいち日研究室に缶詰だそうだ。それはかえって都合が良い。苅住氏の樹木の根の本、裏磐梯の空中写真、彼の裏磐梯に関する10編のコピー。必要な情報はほとんど手に入った。ただ、彼は昼も研究室を離れられないので、残念ながら山形の旨いソバを食べることは出来なかった。 三日目は早々に山形を立ち、名古屋へ向かった。途中福島で思い立って一時下車した。福島市内を川が流れていることを思い出したのだ。タクシーを拾って紅もみじやま葉山公園まで行ってもらった。公園でミズナラのどんぐりを拾った。樹にくくりつけられたプレートにはコナラとあった。明らかな間違いだ。いや、それは雑種の可能性もあった。葉柄が中間的なので。しかし殻かくと斗は明らかにミズナラのそれだ。 公園の裏手は川に接している。阿あぶくま武隈川だ。川の向こうにまばらな町並みがあり、その向こうに丘陵が迫っている。昔ながらの発展しない町並み。 帰りのタクシーで運転手が言った。福島は落ち込んでいるね。仙台は除染の作業員がどっと来て景気がいいけど。 昼食時に福島駅の構内でソバを食べた。食堂の壁に古い朝日新聞の記事が貼られていた。ラジウムそばが名物だという。そのとき気づいた、放射能にみな無知なことに。 暑い名古屋に八日にもどり、十三日にはまた名古屋を立った。裏磐梯に調査に行く決心をしたのだ。 新幹線を東京で乗り継ぎ、郡山で磐越西線の特急に乗り換える。十五分ほど間があった。この間、思い出に耽ふける。 大学院時代、二年後輩の平たいら慎しんぞう三君と佐渡ケ島へ行ったことがある。仙台から延々バイクを飛ばし、暗い山中を越えて新潟に出る。平君は新潟市出身である。一晩彼の実家に泊まった。翌日、港からフェリーで島に渡ったことも思い出した。 佐渡ケ島に渡った晩の宿でのことである。若い女の子が二人ワインを抱えて入って来た。おそらく大学生だっただろう。平君は修士の一年で僕は後期過程の一年目だった。宿の造りと、賑やかな華やいだ雰囲気を鮮明に覚えている。当時は失恋の心の傷がやっと癒いえた頃だった。 平慎三君は生意気な学生で、オダムの生態学の基礎を原書で読み合わせていると、先輩、そこはこういう風に訳すべきですよ、とか言うのである。私は英語は得意であったが、生物学は苦手だったのだ。 石巻から船で渡る金華山という島がある。そこにはシカが生息していて、動物生態学講座の

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