かけはし No.303
6/20

- 6 - 今、雇用の現場で起きていること(その20)学者の社会的責任とは(1) 法学研究科 和田肇はじめに 今までと話題は変わるが、今回から三回に分けて、学者の社会的責任について考えてみたい。今まで話してきたことが、労働法学者の社会的責任の問題と大きく関係しているからである。本来ならば、人文科学、社会科学、自然科学のすべてにわたって検討しなければいけないテーマであるが、とりあえずは私の専門分野である労働法学を中心に述べてみたい。一 三・一一と科学者 東日本大震災と福島での原発事故以降、市民の科学者に対する信頼度は急速に落ちているといわれている。いくつかの要因が考えられる。 一つに、多くの地震学者や原子力(核分裂)研究者は、今回の大震災や大事故を想定外のことといった。「多くの」というのは、それらを想定し、主張してきた学者も(名古屋大学にも)いるからである。科学的な真理は多数決ではないはずであるが、「科学的な」見解が企業経営や政治と結びつくと、真理がねじ曲げられることを、残念ながら今回の事態は証明した。 二つに、社会の様々な批判や意見に対して、幾人かの科学者は、ときには沈黙し、ときには論点をずらし、ときには学問的なバックグランドがないとして無視したり、揶揄して対応した。 たとえば、原子力ムラに生息する研究者に対して電力会社から寄付がされていることをマスコミが取り上げたときに、「正規の手続をとって寄付金を受け入れているので、法的に何も問題はない」と回答した。本来ならば、「それは皆さんには関係ないことで、もし関心があるなら大学に対して情報公開の手続きを採って下さい」といいたいところだったろう。それも十分に考えられる選択肢である。 しかし、それではあまりにも木で鼻をくくった対応にすぎると考えたのであろうか、先のような発言をした。これは一種の論点そらしである。もしマスコミ等の疑念を忖度して、丁寧に対応しようとするのなら、「X電力会社から○○の研究目的で、△△万円の寄付を受け、委任経理金として処理して研究をしました。その成果は、□□です。」と説明すればよいだけの話である。そうした研究が批判を浴びるかどうかは、学問の領域の問題であり、学者の良心に背くものでないなら、そう対応すべきであろう。 三つに、二〇一一年七月七日付で日本原子力学会は、「福島第一原子力発電所事故『事故調査・検討委員会』の調査における個人の責任追及に偏らない調査を求める声明」を出した。そこでは、「今回の事故調査においては東京電力(株)福島第一原子力発電所及び原子力防災センター(OFC)等の現場で運転、連絡調整に従事した関係者はもとより、事故炉の設計・建設・審査・検査等に関与した個人にたいする責任追及を目的としないという立場を明確にすることが必要である。」と述べている。これに対しては、検討会委員からすぐに反論が出された。本末転倒の議論であったからである。二 価値の学問ではない自然科学? 今から数十年前に法学論争というのがあり、その中で、他の学問、とりわけ自然科学と比べて、法学は科学かが議論された。そこで想定されていたのは、自然科学は、研究者の立場や信条と関わりなく、客観的な真理が探究できるという学問だという考え方であった。 しかし、現実には、そうした考え方が貫徹できない領域がかなり存在している。たとえば、遺伝子組み換え研究は価値判断を抜きにできるのか、生命維持装置を装着して延命させることは適切な医療なのか、代替エネルギーの開発を阻害するようなロビー活動で、原子力政策・研究を推進することは適切なのか、男性については婚姻外の精子利用を認めておきながら、何故女性については婚姻外の卵子利用は認められないのか、等々、数え上げれば切りがない。 経済学とて、政策と結びついた主張は、往々にして大きな誤りを犯している。そうでなけれ

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です