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Peace Now! Okinawa 2005報告書 記憶を繋ぐために〜私たちがつくる平和へのミチシルベ〜
Peace Now! Okinawaで訪れた場所や学習会の大まかな説明を時系列に従い記していく。 文責:金丸 遼


Peace Now! Okinawa 2005 感想文はこちら
一日目:沖縄の今   二日目:実感で捉える戦争   三日目:非暴力の選択   四日目:読谷戦後史   五日目:各班まとめと発表


沖縄の今〜日常と非日常の同居〜
ガイド:伊佐 真一朗さん(沖縄国際大学,実行委員)
【沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事故現場】
沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事故現場 2004年8月13日(金)14:15ごろ、沖縄国際大学の敷地内に米軍のヘリコプターが墜落した。原因は、過酷な勤務で疲れていた整備士が、プロペラを留めるある部品を付け忘れたことだった。ヘリは周囲の住宅地に部品をばらまきながら高度を落としていき、ついにはこの場所に墜落した。奇跡的にけが人はいなかったが、もう少し落ちるときの高度が低ければ住宅地に墜落していたし、高ければ授業中の大学の建物にぶつかっていた。事故後四日間ほど米軍は現場の周囲を立入禁止にし、地元の人には何も知らされないまま事故を処理した。
もし自分が普通に大学生活を送っている中に米軍のヘリが墜ちてきたら、と考えるとぞっとする。
今はヘリがぶつかった建物は取り壊され、焼け焦げた木の周りにロープが張ってあるだけである。
【嘉数高台】
 宜野湾市を見下ろす高台である。沖縄戦のときは16日間にも及ぶ激しい攻防が行われ、日米両軍に多数の犠牲者を出した場所である。北の方には米軍嘉手納基地、東の方には琉球大学が見え、その間には沖縄国際大学をはじめとする学校や病院など市民の生活の場があり、その上を米軍のヘリや飛行機が訓練する。どこにヘリや飛行機が墜ちてもおかしくないこの状況は恐ろしい(これが現実になったのが沖国大での事件である)。
 嘉数高台には、展望台や戦争で犠牲になった朝鮮人を祭った青丘の塔、中に隠れながら銃で攻撃するトーチカ、京都府出身の沖縄戦での戦没者を祭った『京都の塔』がある。
青丘の塔 嘉数高台
【学習会:基地問題】講師:伊佐 真一朗さん
 地図を用いたデスクワークを通して、宜野湾の基地問題について考えた。基地による市民生活への影響を知った。

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実感で捉える戦争〜沖縄戦を再認識する〜
ガイド:大城 和也さん
【 前田高地 】
 嘉数高台の北に位置する前田高地は、浦添市にある。1945年4月1日、読谷の海岸(上写真奥)に上陸した米軍は、日本軍司令部のある首里を目指した。しかし、その間には前田高地や嘉数高地などの丘陵地帯があり、日本軍は自分たちから攻めていくのではなく、そこに隠れて米軍を迎え撃つ作戦をとった。このため、前田高地一帯では激しい攻防が繰り広げられ、日米とも多数の戦死者を出した。
下の写真は、前田高地の見学を終えてバスへ戻ったときに、駐車場に停まっていたバスである。沖縄に駐留する米兵は、沖縄に対して『激しい戦いの後に勝ちとった土地』という意識がある。だから、その意識を忘れないために米兵は戦跡の見学に来るのである。写真では分かりづらいかもしれないが、ナンバープレートが米軍のもの(俗称“Fナンバー”)である。
前田高地 駐車場に停まっていたバス
【糸数アブチラガマ】
糸数アブチラガマ 『ガマ』とは『壕』のことである。全長200メートル以上ある鍾乳洞で中は真っ暗でひんやりとしていて、写真を撮っても何が写っているのかわからない。懐中電灯を持って見学したが、途中ガイドの大城さんが一度懐中電灯を消してみようと言った。懐中電灯を消すと本当に真っ暗で、私は涙が出てきた。よくこんな所に隠れていたなと思った。
 このアブチラガマは1945年3月ごろから日本軍の陣地壕として使われ、司令部が置かれていた。このときに写真のようなかまどや井戸が整えられた。5月からは沖縄陸軍病院野戦病院壕糸数分室として使われ、あのひめゆり学徒隊が看護活動を行っていたが、もちろん暗いガマの中なので不衛生で、薬もなく十分な活動ができていたとはいえない。5月25日には撤退命令が出て、歩けない患者を残して、歩ける患者と学徒隊は別の壕へ移る。その後、軍民雑居の避難壕として使われ、約200名が避難した。奥には兵隊、その手前に地元の住民、一番入り口に近いところには違う地域から逃れてきた人々が隠れていた。住民が一番恐れていたのは、アメリカ兵ではなくこの日本兵だったという。小さい子が泣くとアメリカ兵に見つかるからといって、親子でガマから追い出されたり、ひどい場合には母親がわが子を殺すこともあった。食料は、お母さんやおばあさんが「夜になったな。」と思われるころに手探りで壕から出て行き集めていた。6月6日から壕を発見した米軍からの攻撃が始まり、穴へ向かって爆弾を投げ込まれたり、火炎放射器で燃やされたりした。爆発の衝撃で吹き飛んだドラム缶がいまだに天井にひっついている。
 現在では、手すりや柵が設けてあったり、「ベッド」とか「破傷風患者」「死体安置所」などという案内板が立ててあったりして、見学用に整備されているが、当時の状況を想像すると、寒気がする。
【魂魄(こんぱく)の塔】
魂魄の塔 平和創造の森公園の一画にある魂魄の塔。このあたり一帯では激しい戦闘があり、多くの日本兵と住民が命を落とした場所であった。終戦後、米軍の命令で生き残った住民がこの地域に畑や道路を造ろうとすると、次から次へと遺骨が出てくるので、現在この魂魄の塔がある場所に大きな穴を掘って遺骨を集めた。しかしその穴はすぐにいっぱいとなり、現在のように盛り上がった。3万5千人分の遺骨が眠っているそうだ。
現在はコンクリートで固めてある。これは、それまではオープンだったが、占領中の米兵がいたずらしたためである。また、昭和54年2月、近くの摩文仁の丘に厚生省が国立沖縄戦没者墓苑を建設しようとしたとき、地元住民の反対を押し切ってこの塔から遺骨を持って行った、そのときのショベルカーの跡が裏に残っている。
 沖縄には、沖縄戦で犠牲になった各都道府県出身者の慰霊碑があるが、『沖縄県』のものはなく、この魂魄の塔がその代わりであるとも言われている。
【平和祈念資料館】
平和祈念資料館 時間の都合であまりしっかり見てくることはできなかった。全体として住民の視点を大事にして構成されていた。沖縄戦は地元住民の犠牲の上にあったのだと感じた。
 日本が戦争へ至るまでの過程の中で、琉球処分で“日本国民”となった沖縄の人々は、皇民化政策のもと何とか認められたいと思い、“日本人以上に日本人に”なろうとした。それが戦争への積極的参加へとつながった。
 展示品の中で印象に残っているのは、戦闘後に米軍が撮影した遺体の写真である。倒れこむ日本兵だけでなく、唖然とした老人たちの写真や傷を負った小さい子の写真、殺された米兵の写真もあった。吐き気がするくらいグロテスクであった。
【平和の礎(いしじ)・平和の泉】
 沖縄戦での戦没者の名前が刻まれた平和の礎と、「この地から世界へ平和の流れが広がっていきますように」という想いで造られた平和の泉。平和祈念資料館と同じ公園内にある。
 平和の礎には、現在239,801名の名前、つまり“生きた証”が刻まれている。沖縄の人は市町村別に、県外の人は都道府県別に、外国の人は国別になっている。礎には均質に名前だけが刻まれている(中にはまだ名前もないうちに亡くなって「○○の第△子」と刻まれているのもある)が、それぞれの人にそれぞれの人生があったはずで、ここを訪れる人にはそれが伝わりにくい。そこで、ガイドの大城さんはその人の亡くなった日、年齢、場所などをまとめた表を使って説明してくれた。はっきりとイメージできたわけではないが、名前を見ているだけよりはだいぶ実感として捉えることができたと思う。
 ここにはアメリカ人の犠牲者の名前も刻まれている。また、日本へ強制的に連れてこられた朝鮮人の名前も刻まれているが、従軍慰安婦の問題など彼らにとって日本での扱いは屈辱的なものであって、なかなか名乗り出にくい状況があり、実際の戦没者の割に刻まれている名前は少ない。実際日本に連れてこられた朝鮮人の数は学者によって大きく異なり、正確な当時の状況は未だわかっていないが、一つ言えるのは「日本は一方的な犠牲者ではなかった。」ということである。
平和の礎 平和の泉
【学習会:住民スパイ視について】
 
講師:地主園(じぬしぞの) 亮(財団法人沖縄県立文化振興会公文書管理史料編集室主事,沖縄平和ネットワーク会員)
 アブチラガマの説明で、住民が米兵より日本兵を恐れていたと記したが、日本軍は情報に対して敏感になっていて、情報漏れを防ぐために住民を殺すということも起きていた。国家が国民を殺すとは、「一体日本軍は何を守りたかったのか?」ということを深く考えさせられた。これは、どこか現代の政治にも通じるところがあって、本当に今の政治家に国民の“顔”が見えているのか、とも思った。

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非暴力の選択〜『人間の住んでいる島』伊江島の記憶をたどる〜
ガイド:伊佐 真一朗さん
私の選んだ伊江島についてのみ記す。
伊江島について
 沖縄本島の北西に位置する伊江島。本部港からフェリーで30分くらいで行ける離島で、絶好のダイビングスポットがある。この小さな島を制圧するのに米軍は一週間かかったので、米兵にとって伊江島は、特に“勝ちとった土地”という意識が強い。終戦直後は米軍基地が島の面積の約60%を占め、現在でも35%を米軍基地が占めており、パラシュート部隊が訓練を行っている。伊江島の戦中・戦後を理解することは、沖縄の戦中・戦後の本質的な意味が見えてくるので、伊江島は“沖縄の縮図”ともいわれる。
伊江島 伊江島

【アーニー=パイル記念碑】
アーニー=パイル記念碑 アーニー=パイルはアメリカの従軍記者で、あのノルマンディー上陸作戦などを取材していた。彼の書く記事は、殺人を義務付けられた“兵士の心”を描いた人間味溢れるものであった。しかし、兵士の苦しみを理解すればするほど自身も同様の苦しみに陥り、この伊江島での仕事を最後に引退しようと考えていた。1945年4月16日、米軍は伊江島に上陸。その二日後、日本軍の狙撃に遭い、彼は現在碑が立っている場所で亡くなった。
 彼は、今回のPeace Now!のテーマである『伝える』ということにおいて、“心”まで伝える記事を書いていたという点で参加者として尊敬する。彼の記事は“事実”ではなく“真実”を伝えていた。また、伊江島の人々が敵であったアメリカ人でもこのようにして現在まできちっと祭っていることに、伊江島の人々の寛大さを感じるとともに、被害者は沖縄の人だけではないことを感じた。
【公益質屋跡】
公益質屋跡 公益質屋とは、昭和初期に市町村または社会福祉法人によって設立された、低金利の庶民金融機関のこと。戦前の伊江島は、水源がなくこれといった産業もなく、貧困で苦しんでいた。
 金融機関だけに頑丈に造ってあったこの建物は、沖縄戦後伊江島で唯一残った建物だったが、それでも写真のような有様である。本土でも戦後残った建物はあるが、それはすべて空から攻撃を受けたもので、地上戦のあった沖縄ではこのように横からの攻撃を受けた跡がある。砲弾は“鉄の暴風”と呼ばれ、台風の雨のように飛んできた。現在でも壁に弾丸が残っている。
【アハシャガマ】
アハシャガマ アハシャガマは、アブチラガマと違って奥行20mほどで、一番奥でもそこそこ光が入ってくる。戦時中はここに150名ほどが避難していたが、米軍に追われた防衛隊(現地住民によって編成された軍の補助部隊)が合流した。4月22日、防衛隊を追ってきた米兵がガス弾などでガマを攻撃し投降を呼びかけたが、「米軍に捕まれば男は戦車にひき殺され、女は強姦されたあげく殺される。」という日本軍が流した噂が広まっていたので、誰も投降しなかった。しかし、米兵は入り口にいて逃げ場はなく、パニックに陥った人々は、防衛隊が持ち込んだ爆雷で集団自決を図った。ここの岩は崩れやすいので、爆発の衝撃で岩が落ちてきて、人々が生き埋めとなり、今でも下に遺体があるそうだ。生存者は20名程度だった。
 実際ガマにいた人の多くは年寄りや生まれてしばらくの小さい子で、戦前の『皇民化教育』を受けていた人は少なかったので、自決した人々に「お国のために死ぬ」という発想があったかどうかはわからない。それをすべて“自決”という言葉で括ってしまうのは、それぞれの人生や命を軽視しているように感じる。
 現在も外の岩に錆びた弾丸が残っている。
アハシャガマ アハシャガマ
【城(ぐすく)山・「沖縄の太陽」碑】
 城山は、標高172mの岩山で頂上まで階段で登山道が造ってある。遠くからでも見える城山は、古くから海上交通の目印とされ、また“神が降り立つ場所”として人々に崇められてきた。
 この城山の頂上の岩肌に『沖縄の太陽 黒田操子来島記念』と刻まれた碑がある。当時東京に住む女子高生だった黒田操子さんは1955年1月、新聞報道で伊江島のことを知って、伊江島の人々へ激励の手紙を書いた。その手紙は土地闘争で疲弊する島民を励ました。島民からの返事の手紙で伊江島の窮状を改めて知った黒田さんは、今度は国連やニューヨーク=タイムスなどマスコミ各社へ心を込めた手紙を送り、その伊江島の窮状を訴えた。当時、沖縄はアメリカ占領下とはいえ手紙を送ることまで厳しく制限されていたわけではない。その黒田さんの“誰にでもできる行為”は大きく取り上げられ、全国から援助の手が差し伸べられるようになった。
 当時渡航は厳しく制限されていたが、1956年正月、ついに黒田さんの伊江島訪問が実現した。彼女は、心の底から笑うことを忘れていた伊江島の人々に笑顔と人間的な感動、涙を取り戻させた。
 その後も黒田さんは沖縄の実情を訴える活動を続けた。1959年7月、沖縄八景で一位と言われ、伊江島の象徴である城山の頂上の岩に黒田さんを称える碑が刻まれた。まさに「身近にできることから」始まり、その愛が世界中へ広がっていくモデルのようなことをした人物である。
城山 沖縄の太陽 黒田操子来島記念
【湧水(わじー)】
湧水 川や池のない伊江島で、数少ない真水を得ることができる場所である。60mもの断崖の下にある。今でこそ地下ダムが造られ、水に困ることはなくなったが、戦時中は多くの人がここへ水を求めてやってきた。また、米軍もここから水を汲み上げていた。
 ワジー周辺には多くの自然壕が残されている。
【団結道場】
団結道場 1961年阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんが中心となって『伊江島土地を守る会』が結成された。1967年12月に土地闘争の拠点としてこの『団結道場』の建設計画を立てた。ここは土地返還を求める闘いの後継者育成を目的とし、本土や村外から訪れる人々の宿泊所、さらに、野蛮で無知な米兵を人間として教育する場とされた。もちろん米軍がこのような施設の建設を許すはずはなく、建設途中で米軍による妨害を受けたが、二年半の歳月をかけて1970年にようやく完成した。壊されないように頑丈に造られたこの道場は、中は6畳ほどの広さで、外の壁には写真のように米軍へのメッセージや平和を創った偉人の名前、裏には土地闘争において非暴力を誓った『陳情規定』が書かれている。2002年に外壁が塗り替えられている。
 中の梁の上に、建設に協力してくれた人々の名前が書いてあった。その中に『三重県立亀山高校二年生』という字を見つけて、亀山市出身の私は「こんなところで“亀山”の字を見るとは!」という驚きと親近感が沸いた。
【ヌチドゥタカラの家】
 「ヌチドゥタカラ」とは「命こそ宝」という意味。独特の自然と歴史と文化がつくった沖縄の人々の精神である。このような発想があるからこそ、非暴力の闘いができるのである。ここには阿波根昌鴻さんが自分の足で集めてきた資料が展示されている。他の資料館と違って、ショーケースなどはなく展示品に触ることができる。
 土地闘争の中で収容した米軍が訓練で使った爆弾や銃弾、原爆模擬爆弾、鉄線、標識や戦争直後の生活用品や闘争を記録した写真や土地を守る会の旗などを展示しているほか、戦死した日米の兵士など全ての人を慰霊した『無縁洞』が安置されている。ここの壁にもあの『陳情規定』や「すべて剣をとる者は剣にて滅ぶ」という聖書の言葉が書かれている。これらは阿波根さんの土地闘争の信念であった。
ヌチドゥタカラの家 陳情規定

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読谷戦後史〜戦い続ける村〜
読谷村へ行く予定であったが、台風接近のためフィールドワーク中止。訪れる予定だった場所だけ記しておく。行けなくて本当に残念である。
読谷村役場   象のオリ   座喜味城址   チビチリガマ
読谷補助飛行場   トリイステーション   安保の見える丘      

【グループ討論】テーマ:暴力に勝つものは何か?
 急遽予定が変更され、このグループ討論の時間ができた。私の班では、じゃんけんで暴力推進派と非暴力派とジャッジを決めてディベートをした。そのディベートとそれまでのフィールドワークを通して学んだ答えは人それぞれであったが、“愛”とか“団結力”“お互いを認め合うこと”“教育”などという答えが出た。どれも大切であると思うが、どれか一つだけではどうにもならないと思う。そうかと言って、それはとてつもない力かといえばそうではなく、もっと身近なところから始められるものだと思う。

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各班まとめと発表
 それぞれの班が模造紙にこのPeace Now!で学んだことをまとめた。私のいた班では、メンバーがそれぞれの「暴力に勝るもの」と「これからやりたいこと」を発表した。私は、暴力に勝るのは、伊江島で見てきた『団結力』、これからやりたいのは機関誌での平和についての記事を書くことと九条の会での活動をがんばると言った。

―生存者について―
 沖縄戦での死者は20万人ともいわれ、うち12万人が民間人といわれている。生き残った人々はそれでよかったのではなく、ずっと精神的に苦しみ続けてきた。
 あの辛い出来事を思い出したくないので、戦争体験を語ることはなかったが、もう先は長くないので、ようやく最近になって語り始めた人もいる。
 ある男性は、一度兵隊として出ていったが、命を落とすことなく帰ってきた。ある日近所を歩いていると、自分の本当の母親くらいの年齢の女性に「あんたは賢いねぇ。」と言われたという。「うちの子は馬鹿だから、言われるがままに爆弾抱えて突っ込んで行ったけど、あんたは賢いからそんなことはしなかったんだね。」と言われた。
 読谷村の米須という集落は、特に戦没者の割合が多かったところである。中には一家全滅という家もいくつかあるが、一家で一人や二人生き残った家も辛い思いをしている。当時は家族の人数が多いので、それまで一家8人とか10人で囲んでいた食卓が、一人になると寂しくなる。
 戦争体験者の数が減っていく中で、私たちがどう後世へ伝えていくかは大きな課題である。

沖縄全体
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沖縄本島南部
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